Project Storiesプロジェクトを追う

project 02
PROJECT01

ES/iPS細胞の新たな培養法を開発し、
医療や創薬の未来を切りひらけ!

無限に増殖する能力と、あらゆる臓器になりうる能力。
ヒト多能性幹細胞(ES/iPS細胞)は、神秘的な力を秘めた細胞である。

これを自在に活用できれば、再生医療や創薬研究は大きく進む。そのために必要なのが、高品質の細胞を大量に安定供給することだ。その培養法を巡り、いま世界では熾烈な研究競争が繰り広げられている。日産化学は、京都大学 物質-細胞統合システム拠点(iCeMS)との共同研究で、画期的な三次元培養法を可能にする培地開発に取り組んだ。

※登場人物の所属は取材当時のものです。

プロジェクトの中心メンバー

  • 西野泰斗
    西野泰斗
    生物科学研究所
    医療材料グループ リーダー

    NEDOプロジェクトのリーダー。医学博士。

  • 堀川雅人
    堀川雅人
    新事業企画部

    細胞材料プロジェクトマネージャー。研究員を経て、本社に異動し新事業に携わる。薬学博士。

  • 猿橋康一郎
    猿橋康一郎
    材料科学研究所
    次世代材料研究部

    材料開発のリーダー。培地の作成に携わる。理学博士。

  • 大谷彩子
    大谷彩子
    生物科学研究所
    医療材料グループ

    プロジェクトでは生物評価を担当。製品化の規格に貢献。

偶然!?必然!?新材料との出会い

偶然!?必然!?新材料との出会い

再生医療や創薬研究を進めるには、ES/iPS細胞を、品質を保ちながら、安定的に大量生産することが欠かせない。そのための培養法は、すでに各所から提案されているが、どれも問題点を持ち、決定打までには至っていない。

2010年3月、新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)によるプロジェクトがスタートした。iCeMSが主導し、日産化学を含む数社が共同でES/iPS細胞の新たな培養法開発を目指すというものだ。

共同研究における日産化学の役割は培地開発である。日産化学にとっても初めての取り組み。総力を結集して、このプロジェクトに取り組むことになった。

プロジェクトがスタートして1年余り、西野泰斗は培地に適した材料探しに奔走していた。当時、ライフサイエンス材料の研究を進めていた材料科学研究所にも材料提供を依頼し、検討を重ねたが、納得できるものを見つけることができず焦っていた。

従来の三次元培養法では、細胞が凝集しすぎ、巨大化。大量培養には向かなかった。左写真は巨大化したがん細胞の例。

一方、新事業企画部の堀川雅人は、新規事業に繋がる新たな材料を日々探していた。西野が取り組んでいる細胞培養培地材料についても、常に頭にあったという。

その日も堀川は情報収集のために展示会に足を運んだ。ふと足を止めたのは、異分野である食品向けの展示の前。ゲル状の材料の中にフルーツが浮いている。飲料の中にフルーツを浮かせるための添加剤を紹介する展示だった。

「浮いているフルーツを見て、細胞も浮遊させて培養できるのではないか、と考えたのです」と堀川はその日のことを語る。

「展示されていたのは、ゲルでありながら流動性も持つユニークな高分子ポリマー『ジェランガム』でした。これなら食品添加物として安全性も認められているし、求める要件に合致するのではないか、と」

堀川は、さっそくジェランガムを添加した培地の作成を研究所へ要請する。専門性の異なる生物科学研究所と材料科学研究所が、互いの知見を活かして意見をぶつけ合い、試行錯誤の末、培地サンプルを試作。社内にあるがん細胞を用いて浮遊培養が可能であることを確認した後、iCeMS設立拠点長でプロジェクト・リーダーの中辻憲夫教授にES/iPS細胞への適性評価を依頼する。その結果、ES/iPS細胞のスフェア(細胞塊)は浮遊し、培養が可能なことが確認された。サンプルは、中辻教授が持っていた三次元培養のイメージに近いものだったのだ。ジェランガムを使った三次元培養培地の開発が本格的に動き出した。

絡みあう変数、最適解を探せ!

絡みあう変数、最適解を探せ!

iCeMSの研究グループが取り組むのは、ES/iPS細胞のスフェア(細胞塊)培養法の開発である。その培地をつくるためにジェランガムが適していることはわかった。けれども実際に大量培養用の培地にするには、問題が山ほどあった。

「濃度、温度は当然のこと、容器内での撹拌方法から撹拌する速度や方向までが検討事項となりました。これほどの変数になると最適解を見つけるのが非常に厄介です」と指摘するのは、培地の製法研究を担当した猿橋康一郎だ。手探りで培地の調製に適した条件を見つけ出すだけで3カ月が流れた。

「細胞の培地ですから滅菌を完璧に行う必要があります。いよいよ明日、iCeMSにサンプルを提出するという段階で、通常の滅菌をしたら、それまで出ていた培地としての能力が消えてしまう事件がありました。目の前が真っ暗になりましたね」と思わぬトラブルを語る猿橋。この時は、夜遅くまでかけて滅菌をやり直すことで事なきを得たという。

材料のプロとして、数々の難易度の高い材料を扱ってきた猿橋にとっても、細胞や培地は、まったくの専門外。細胞培養経験のある上司や後輩とのディスカッションを重ねながら、少しずつ歩みを進める日々だった。

高分子ポリマー「ジェランガム」を基本培地に添加することで、培地のハイドロゲル形成や大幅な粘度上昇なしで、スフェアを三次元的浮遊状態に保つことができる。
(資料提供:iCeMS)
本当に細胞を培養できるのか!?

本当に細胞を培養できるのか!?

材料科学研究所の猿橋たちの手で、製法研究は着実に進んだ。添加物や培養期間、使う細胞などを変えて、ベストな組み合わせを探っていく。

最終目標はES/iPS細胞の大量培養。研究室の10センチの培養皿とは、ケタ違いの培養を成功させることだ。ただし、NEDOプロジェクトの対象となるES細胞を扱うためには、複雑な手続きが必要となる。

時間短縮のため、日産化学ではがん細胞などES/iPS細胞以外の細胞を使って実験を進めた。

材料科学研究所で製法を絞りこみつつ、同時に生物科学研究所では、生物評価を行って裏付けを進めていく。それを任されたのが2012年に入社したばかりの大谷彩子だった。

「入社後、直ちに西野チームに配属されました。細胞培養に関して基礎知識はありましたが、かなり難易度の高いOJTでしたね」

当時、西野や大谷が苦悩したのは、データの再現性が取れないことだった。実験を繰り返すたびにプロセスのどこかで、ほんの少しずつ条件が変わるため、同じデータを再現できず、そのままでは信頼できる培地とはなり得ないのだ。要素を1つずつ潰していくが、答えが出ない。そこで西野は発想を変えた。それまで社内では知見がなかった評価系を立ち上げて、新たな評価を行ったのだ。思い切った施策により、ようやく出口が見えてきた。

研究のキャッチボール。

研究のキャッチボール。

日産化学チームによる培地開発の進捗状況は、iCeMSのチームに報告されていた。iCeMSでは、日産化学から提供された培地を使い、ES/iPS細胞の培養実験を進める。ただし使用する細胞が異なるため、培養結果も当然異なってくる。

「我々のチームで出した条件をiCeMSに投げ、いろいろ試してみてもらって、結果を我々に投げ返してもらう。そうしたキャッチボールをくり返しました」

ボールを受けた日産化学では、生物科学研究所の西野・大谷たちと、材料科学研究所の猿橋たちが協働してiCeMSが求める条件をクリアしていく。研究は少しずつ、だが着実に進んでいった。

中辻憲夫 博士
京都大学 物質-細胞統合システム拠点
教授・設立拠点長

三次元培養法で継代維持したヒト多能性幹細胞のスフェアの形態および増殖速度は、従来の平面的なスフェア培養で維持したスフェアと同様になった。(資料提供:iCeMS)

三次元培養されたヒト多能性幹細胞のスフェアは、多能性マーカーを発現することが、免疫染色法によって確認できた。
(資料提供:iCeMS)

細胞を見る感性が研ぎ澄まされる。

細胞を見る感性が研ぎ澄まされる。

生物科学研究所では、大谷が実用化を目指した地道な作業を続けていた。

「実用性を考えれば、顕微鏡観察をしやすくするための透明性の高さ、ピペット内に残らないように扱うための粘性などが問われます。私のミッションは、ハンドリング性が良くて、透明性もあり、もちろん培養性にも優れている、といった最適条件を見つけることでした」

この間の大谷の成長ぶりを西野は高く評価する。

「細胞培養を緻密にコントロールする作業には、高い注意力や観察力などが求められる。大谷を見ていると、そうした素養が日々、磨かれていくのを感じました」

一方で、大谷は当時を振り返り、日々の作業がとても楽しかったという。
「毎朝、細胞を培養しているプレートを見に行くのが楽しみでした。多い時には10種類の培地を比較していましたが、細胞を見極める感性が日増しに高まった実感があり、一目で成長の違いがわかるようになりました」

三次元培養培地により、スフェアの大きさを比較的均一にすることができる。それは、より生態に近い細胞を、効率的に培養できることに繋がる。
開発中止!?走る動揺。

開発中止!?走る動揺。
ピンチをチャンスに変えろ!

着実に研究が進んでいた頃、堀川がある学会で見かけた発表が、チームを激しく動揺させた。

「我々と同じ研究に取り組んでいる企業があったのです。培養対象こそES/iPS細胞ではないものの、細胞の三次元培養というコンセプトは同じ。しかも相手も既に特許申請を済ませている。正直、やられたかもしれないと覚悟しました」と、当時の危機感を堀川は説明する。

もちろん、この時点までに日産化学でも特許申請は済ませている。

それでも、何かが相手方の特許に抵触すれば、最悪の場合は開発が頓挫する恐れもある。堀川は直ちにその製品を研究所へ持ち込み、分析を依頼した。「その結果、我々のものとは成分が異なることがわかりました。さらに相手方の特許が狭い範囲に限られていたことも判明し、事なきを得たのです」

この事件は、日産化学チームにとって教訓となった。他社の追随を防ぐため周辺の方法や材料を確認して押さえていく作業が、それまで以上に慎重に進められた。

培養法の完成、そして市販へ。

培養法の完成、そして市販へ。

実験レベルでの培養法は確立された。3年間をかけたNEDOプロジェクトは、ひとまず終了。2014年4月にはiCeMS、ニプロと日産化学が共同でプレスリリースし、アメリカの科学誌に論文を発表した。

同時に、これを製品化する取り組みも進められていた。そのためには大量生産する必要がある。その際の課題を猿橋は、次のように説明する。
「例えば80リットルほどの反応槽での生産となれば、実験室とは異なり、内部の状態を均一に保つことが極めて難しい。ここでもまた試行錯誤を重ねました」

製造プロセスの開発は、日産化学が長年蓄えた知見を持つ得意分野。時間は要したものの、何とか安定した製品ができるようになった。

まず、がん細胞の増殖に関して、有効性が確認された三次元培養培地は『FCeM®』シリーズとして、2014年10月から本格販売が開始された。生体内のがん細胞に近い状態で細胞を培養できる画期的な培地であり、抗がん物質の探索用途や、個々の患者に適応した抗がん剤感受性試験への応用が期待される。

堀川は言う。「海外の研究機関などへの販売の展開も視野に入れています。新事業としては、これからが勝負です」

彼らは次の頂へ向かう。

彼らは次の頂へ向かう。

研究はこれで終わりではない。本命のES/iPS細胞を工業化レベルで大量培養するための培地開発に取り組まなければならない。

既に5年後を目指した新たなNEDOプロジェクトがスタートしている。目標は、一つのタンクの中で10の11乗レベルまで細胞を増やすことと、できた細胞の品質を臨床研究に使えるレベルで保証することだ。

新たな取組みが成果を出せば、日本における再生医療は、まさに臨床段階に入ることになる。世界の最先端を切りひらくために、培地開発に掛けられる期待は極めて大きい。

西野、堀川、猿橋、大谷をはじめとする日産化学のチームが、ここまで登ってきたのは、確かに高い頂だった。しかし、登ってみればそこは、さらに高い大きな山塊の、一つの頂に過ぎなかったのだ。彼らの歩みは、これからも続いていく。

人類に役立ち、経済的にも成功する—。産学連携本来の狙いを、ともに実現したい。

人類に役立ち、経済的にも成功する—。
産学連携本来の狙いを、ともに実現したい。中辻憲夫 博士

西野さんと初めて会ったのは、2010年にNEDOプロジェクトがスタートする頃でした。ヒト多能性幹細胞の大量培養について、以前から私は、培養を化合物で制御する手法に取り組み、ある程度の成果を出していました。

とはいえ、研究室で培養できる細胞の数は10の7乗以下が限界。これではせいぜいネズミ数匹の治療しかできません。肝疾患や心疾患など人の再生医療においては、少なくとも10の9乗個以上の分化細胞が必要です。そこで三次元培養法に取り組み、その培地開発のパートナーが日産化学になったわけです。

3年間のプロジェクトの結果、2種類のポリマーを用いた新たな三次元培養法の開発に成功しました。成功の要因の一つが、日産化学チームのがんばりです。2、3カ月に一度のペースでミーティングを繰り返し、さまざまなアイデアをぶつけあってきました。西野さんは、誰に対してもきちんと主張し、相手の話にはしっかりと耳を傾ける。協働するパートナーの姿勢として申し分ありません。

今後、ヒト多能性幹細胞の培養を実用レベルに高めるには、培養機器システムの開発が必要です。これにより培養する細胞の数を10の11乗まで増やしたい。既に実用化を目指して、新たなNEDOプロジェクトが始動しています。成功すれば、日本発の技術が世界的なシェアを獲得できる可能性があります。現在、進行中なので詳細をお話しすることはできませんが、ここでも日産化学に期待するところは極めて大きいのです。

大量生産と並んで重要なのが、品質の確保。医療に関わる技術だけに1万分の1の不良も許されません。そこで活きるのは日本企業がこれまで培ってきた技術力でしょう。我々との共同研究を活かして、日産化学が、世界人類のために役立つ製品開発に成功することを期待しています。