化学メーカーの研究所で開発された材料は、実際に工場で安定して生産されて、はじめて製品になる。いかに生産するか。どう生産し続けるか、ものづくりの力が問われる。そこで重要な役割を果たすのが、プロセスエンジニアだ。化学工学を学び、化学メーカーでプラントに関わることを選んだ彼らは、どのように成長していくのだろうか。入社から約20年で、海外工場の工場次長を任されている千葉に話を聞いた。
「解決できないトラブルはない」と言えるまで。
「就職の時は、とにかくプラントをつくりたい。そこでものづくりをしたい、としか考えていませんでした。単純でしたね」 という千葉。入社後に配属されたのは富山工場。いきなり新規製品をつくるためのプラント増強工事に関わることになった。
「プラントから出る廃水を処理する設備の新設を、先輩に付いて担当したんです。当時はまだ右も左も分からずやっていました」 ただただ懸命に取り組んでいるうち、1年後には工事が終わり、プラントが動き出した。初めて担当したプラントから製品を送り出す。さぞうれしかったかと思えば、それどころではなかったと千葉はいう。「いろいろなトラブルが起こったのです。なのに、そのプラントから毎日製品をつくって送りださなければならない。うれしいというより苦しかったですね」
いま考えれば、新設の設備でトラブルは起こって当たり前。しかし当時の千葉にはキツかった。何が良くないのか、どうすれば良くなるのか。この頃必死で勉強したことが、次へつながっていく。「プラントからは、自分が考えたこと、実験したことの答えが、明確に返ってきます。今は “解決できないトラブルはない”と言える。それは、この時期があったからでしょうね」
「総合力」を学ぶ。
千葉は次に、液晶ディスプレイ向け材料「ポリイミド」のプラント新設プロジェクトに参加する。「ポリイミド」のプラントは袖ケ浦工場ですでに稼動していた。そのプラントをスケールアップさせ、富山工場と韓国のNCKに新設する。富山工場で中間体までを作り、NCKに送って完成させ、NCKが出荷するという連携プラントのプロジェクトだった。千葉は富山工場のプラント建設を担当した。
この仕事で千葉が経験したのは、いったい何が正しいのか分からないという、もどかしいような思いだった。計算をすれば机上の答えは出るが、プラントの形になった時に本当に正しいのかどうかが分からない。経験から来る引き出しが、まだ千葉には足りなかった。ならば誰かに相談するしかない。「プロセスエンジニアの上司や先輩はもちろん、機械や電気のエンジニアとも話し、エンジニアリング会社の人とも話す。ありとあらゆる人から教えてもらいましたね」と千葉は言う。プラントが完成し、安定して稼働する様子を見届けて、千葉は袖ケ浦工場へ異動する。入社から4年半が経っていた。
千葉は、袖ケ浦工場で次々と新しいテーマに取り組んだ。まずは既存のプラントにロボットによる充填機を導入した。それは袖ヶ浦工場にとって初のロボットだった。次に、液晶ディスプレイ向け材料の大型プラントの新設。前述したように、袖ケ浦工場にはすでにそのプラントがあったが、受注が伸び続ける中、さらに大きなプラントを新設することになったのだ。次世代のプラントをつくるというコンセプトのもと、千葉はプラントを制御する最先端システムの導入を担当。制御技術も一から勉強した。だが、やはり知識が足りない。
「自分の専門分野なんて、全体から見れば一分野に過ぎないんです。それに気づくことが始まり。プラントは、さまざまな技術が集まって、総合力で建つ。関わっている人たちから学び、自分でも勉強していかないと」 ある意味、会社の将来を左右するような大きなプロジェクトで、千葉はさらに多くのことを学んだ。
プラントは、形として残り、動き続ける。
入社から15年。千葉は課長になった。予算や人材、コンプライアンス……。関わる範囲が一気に広がり、考え、決断を迫られる場面が急増した。「これまで、“たいへんだなあ”と横目で見ていた課長の役割が、自分の身に降りかかってきました」と千葉は笑う。
だが、課長職は楽しかったようだ。「以前、ある工場長がよく言っていたんです。“振り返って、一番楽しかったのは課長時代だ。自分が計画して進められる。やりたいことはなんでもできる”と。なるほど、あの時の言葉はこういうことか、と思いましたね」 課長は、いわば現場の責任者である。自分で起案して計画したことを、直属の部下の指揮を執って、自分の責任で進めていける。そして、立場が変わると、関わる人が増えていく。数人が10人に。10人が100人に。自分がそのコアになって、コミュニケーションを取っていく。立場が人を育てるのだ。
千葉は現場の責任者として、いくつもの仕事を形にしていった。「とにかく、自分たちのつくったプラントが形として残り、動き続けるのが、この仕事のいいところです」と千葉は微笑む。
千葉が、日本での課長職を5年務めたところでNCKへの異動辞令が届いた。
“プロセス屋”の道は続く。
今、NCKの総合事務所で語り続ける千葉の胸には、韓国語の名札がある。NCKでは、取締役社長をはじめ、工場長も、部長クラスも、ほぼ全員が韓国人だ。そしてNCKの工場は今、日産化学の国内工場に負けないほどの規模になり、それらを上回るほどの売上や利益を出している。「この会社やメンバーが20年近く重ねてきた努力には頭が下がります」と千葉は言う。その工場で次長を務める今、どう思うのか。
「関わる範囲が大きくなっているだけで、やっていることは、何も変わっていないような気もするんです。でも……」と千葉は考えた末に続ける。「意識や視点は変わったかもしれません。“自分がプラントを建てる、自分がプラントで製品をつくって出荷する”、というよりも、今は“この会社で製品をつくって出荷する”という意識になっていますね」
千葉は言う。「私がここに赴任している期間が5年だと仮定すると、NCKの5年後はどうあるべきかをイメージして、それに必要な動きをしたい。NCKは今や日産化学グループの電子材料の最前線といっても過言ではないわけですから」
プロセスエンジニアとしてキャリアを積んだ千葉。その思考は今、工場、会社、グループ全体、さらには世界の市場の状況へと拡がっている。では千葉は、もうプロセスエンジニアを卒業してしまったのだろうか。その問いに、千葉はしばらく考えてから答えた。
「プロセス屋は、インプットとアウトプット、マスバランスとヒートバランスを考えます。ある意味、“バランスをつくる”職種です。いま私が、工場全体のモノ・人・時間・コストのインプットとアウトプットを考える時、プロセス屋として育った思考回路を働かせて、バランスをつくっています。今の工場次長という役割も、広い意味で言えば、プロセス屋なのかもしれないですね」