“子育てと仕事の両立”から、“子育てとキャリアの両立”へ。歩み続ける女性社員に聞く。農業化学品事業部 製造技術担当 A.O. (化学系 2013年入社)

産休・育休を取得しやすい会社や、子育て社員の支援に力を入れる会社が、近年ようやく増えてきました。しかし、子育て社員が“子育てと仕事の両立”ができたとしても、それぞれの望むキャリアを歩めているとは限りません。能力を高めて仕事の幅や裁量を広げたいと望む子育て社員の中には、“子育てとキャリアアップの両立”は難しいと悩んでいる人が少なくないといわれます。いわゆる『マミートラック』の問題がクローズアップされているのです。
A.O.は、産休・育休を経験し、現在も育児をしながら仕事を続けている社員です。その間に、部署の異動や職種の変更も経験。マミートラックに陥りそうな時期も経て、試行錯誤しながら一歩一歩進んでいるといいます。
A.O.は、どんな思いを持って、どのように、自らのキャリアを切り開いてきたのか。人事部の村梶春香が、A.O.にインタビューしました。

※マミートラック=産育休から復帰し、子育てをしながら働く女性が、補助的な業務しか担当できず、キャリアアップとは縁遠いコース(トラック)に乗ってしまうこと。

A.O.のプロフィール

  • 2013年

    大学院(理学 有機合成専攻)を修了し、入社。
    研究員として、物質科学研究所 農薬研究部に配属。

  • 2015年

    入籍

  • 2016年

    産休を経て10月に出産し、育休を取得。

  • 2017年

    4月より復職。同10月には農業化学品事業部 企画開発部へ異動。

  • 2019年

    係長クラスに昇格

chapter01

産休・育休、そして復職。
“想定外”が次々と。

育休から復職した頃。1歳頃までお子さんの体調は安定しなかった。
  • A.O.さんは、6年前に産・育休を経験し、復職されましたね。

    A.O.

    はい。子どもは今年6歳で、来年は小学生。早いものです。本人曰く、自分はダンスと旅行とパジャマが好きな女の子だそうで、お転婆でひょうきんなタイプです。

  • 6年前は、まだ現在に比べて、社会的にも日産化学でも、産・育休を取る女性社員への応援が足りない状況だったと思います。社会では「保育園落ちた日本死ね」がクローズアップされていた時期でした。

    A.O.

    はい。保育園の待機児童が増えて大きな問題になっていましたね。

  • A.O.さんは、そうした時期に産・育休を経験し、復職後は、模索しながら自らキャリアを切り拓いていると聞いています。また、自らの体験談を発信したり、他の女性社員の保活や復職を応援したり、さまざまな取り組みを積極的に続けてきたそうですね。今回は、そうしたお話を伺いたいと思っています。

    A.O.

    わかりました。私の例でよければ、参考にしていただきたいので、お話ししたいと思います。

  • A.O.さんが産・育休を経験したのは、物質科学研究所の農薬研究部に勤務していた時ですね。どのような部署でしたか?

    A.O.

    すでに産・育休を経験した女性の先輩がいて、男性育休の取得経験者もいて、同時期に妊娠中の女性の先輩もいて、子育てと仕事の両立という点で、さまざまな経験を持つ人が集まった働きやすい部署でした。妊娠を上司に報告したとき、間髪入れず「おめでとう」と言ってくれたのを今でもよく覚えています。ずっとその職場で頑張りたかったので、早めに子どもを保育園に預けて復職するという目標を立て、1〜3年先までのグループの研究開発と私の産・育休、復職を複合させた、私独自のスケジュール表をつくり、周りにアピールしたほどです。

  • 妊娠中に勤務をしている時には、どんな調子でしたか?

    A.O.

    今思えば妙に張り切っていました。上司が身体に負荷の少ないデスクワークの業務を用意してくれたのに、なんだか自分らしくなくなっていく気がして、周囲の心配をよそに実験室に立ち続けていました。それが原因かどうかはわかりませんが、妊娠8カ月目に切迫早産で入院しました。自分の体の不調に鈍感だったのは確かだと思います。そのまま休職に入り、以降は安静を保って、なんとか無事に出産することができました。

  • 無事に出産できて本当によかったですね。産・育休を経て復職した後はいかがでしたか?

    A.O.

    出産前の私は、「できるだけ早くフルタイム勤務!」「仕事の量もすぐ元に戻して頑張りたい」と思っていました。でも復職後、子どもが1歳頃まで体調が不安定だったんです。保育園に預けられない日が半分くらいある月もあり、家族で休みをやり繰りして対応しました。加えて、離乳食を始めてから小麦アレルギーであることもわかり、通院が続きました。いつも子どもが心配で、自分もいつ会社を休まなければならないかわからない。心理的には不安でしたね。

  • なかなか事前の想定通りにはいかなかったわけですね。業務の方にも影響が出ましたか。

    A.O.

    常に時間が足りないと感じていました。部署のみなさんはとても優しかったのですが、部署の業務が忙しいのに貢献できない自分を情けなく思っていました。

  • そうした状況を、どのように改善させていったのですか?

    A.O.

    落ち込んでばかりもいられないので、さまざまな工夫をしました。まず、突然休む可能性があることを想定した実験計画を組むようにしました。週報や実験ノートを詳しくわかりやすく書いて、他のメンバーに引き継いでもらいやすいよう気を配りました。また、メンバーが私に仕事を振っていいのか迷っているのを感じ、できるだけ自分や家族の状態や業務の予定を共有するようにしました。

chapter02

育休を通して、
家族がチームになった。

最近の家族の様子
  • ご家族は子育てにどのように関わられてきたのですか。

    A.O.

    主に関わっているのは、パートナーである夫と、実家の母です。
    夫は、同世代の修士で、他の化学メーカーに勤めています。工場併設の研究員でしたが、最近、同工場の品質保証部勤務になりました。自他ともに認める趣味に生きるタイプです。
    母は、私の家と同一市内にある実家で暮らしています。私が子どもの頃は専業主婦でしたが、50歳を過ぎて初めて正社員になり、フルタイムで働いています。母は「子どもは健康に生きていればヨシ」というタイプで、私とちょっと育児方針が食い違うことがあります(笑)。

  • ご実家が近いので、やはり支援を受けられたのでしょうか?

    A.O.

    確かに初めは実家の母に頼ることが多かったのですが、徐々に変化して、パートナーの役割が重要になってきました。
    復職前は、母にも保育園送迎など大活躍してもらう予定で、本人もやる気満々でした。でも、いざその時期になると、母の職場が人手不足で勤務時間が長くなり、疲れが見え始めました。休みの日も疲れていて体力的に限界に近かったんです。今では母には、ときどき要所で協力してもらうようにしています。

  • そこでパートナーさんの役割が重要になってきたのですね。

    A.O.

    夫は、私が復職した直後の1カ月間、男性育休を取得したんです。

  • 6年前は、まだ男性社員が育休を取得するのは珍しい時期でしたね。

    A.O.

    はい、夫の職場ではそれまで男性育休取得の先例がなく、第1号として取得に苦労していましたが、取ってもらって本当に良かったと思います。

  • どのような効果があったのですか?

    A.O.

    それまで夫は育児にあまり興味がなさそうに見えたのですが、育休中の1カ月間で育児に開眼しました。まるで合宿自動車免許みたいに、育児スキルがアップしたんです。
    また、育休が家事の分担を見直す良い機会になりました。今では、事前に分担やお願いをしておけば、ちゃんと家事・育児を引き受けてくれます。
    あと、夫は私よりも子どもがつくった遊びに無心で付き合うことができて、子どもにとって楽しい時間を過ごせる相手になるという、意外な発見がありました。私自身、“子育てに関するたいていのことは母親の方が上手だ”という固定観念を持っていたことを反省させられました(笑)。

  • パートナーさんと実家のお母さんとの協力関係が、うまくいっているわけですね。

    A.O.

    育児はチームづくりが大事といいますが、その通りだと思います。

chapter03

復職後の異動。
マミートラックにはまる!?

研究所時代。農薬研究部 殺虫剤グループのメンバーと。
  • さて、復職の半年後に、研究所から本社へ異動をしましたね。大好きだった農薬研究部から、なぜ異動したのですか?

    A.O.

    異動は自分から希望しました。復職後の生活が、出産前の想定とはギャップがあり、通勤時間を短縮しなければ、と思ったからです。
    夫と私は、それぞれの勤務地の中間にある街に住んでいて、私は千葉県船橋市の研究所までの片道2時間、夫も片道1時間強かかっていました。職場までは遠いけれど、実家が同一市内にあり、保育園に入りやすい都市だったので、その街を選んで住んでいたのです。
    出産前は、保育園の預かり時間を徐々に延ばして仕事をできるだけ効率化すれば、なんとかなると考えていました。でも現実はそんなに甘くありませんでした。フルタイム勤務に戻そうとすると、遅くまで子どもを保育園に預ける必要が生じて、家事はカツカツで、夜、子どもに絵本を読んでやる時間もないんです。それは自分の目指す育児とは違う、と気づかされました。
    研究も好きだし、部署のみなさんのことも好きでしたが、物理的に時間が足りません。夫には転勤の選択肢がない一方で、私は本社に異動できる可能性があり、実現すれば、通勤時間が片道1時間弱に縮まります。悩んだ末に、異動希望を提出しました。私が産休前とは考えを変えたのに、部署のみなさんは私の選択を受け入れてくれました。感謝しています。

  • そこで、本社にある農業化学品事業部 企画開発部へと異動になったのですね。

    A.O.

    はい。その中の、製造技術チーム(以下、製造T)に入りました。研究所や工場でキャリアを積んだ先輩や、製剤処方管理のベテランや、海外現地法人の中国籍社員がいる、個性豊かなチームです。

  • “製造”と名が付くのに、工場ではなく、本社にあるのですね。どんな仕事をする部署ですか?

    A.O.

    製造Tは、日産化学 農業化学品事業部のエンジニアリングチェーンのハブになる部署です。農薬製品の開発・生産準備・上市・維持・終売のライフサイクル全体に関わります。
    農業化学品事業部には100種類を超える農薬製品があり、自社工場や国内/海外の委託工場などさまざまな工場でつくられています。社内でも、とても多くの部署・社員が関わります。ですので、全体像を把握し、各部署と密な連携をして課題解決できる製造Tのような部署が欠かせないのです。

  • 農薬製品のライフサイクル全体に関わるとなると、O.A.さんの仕事も、とても幅が広いわけですね。

    A.O.

    農薬の製造のすべてに関わるといっても大げさではないですね。他の職業でたとえるなら、国立公園のレンジャーが近いと思います。

  • レンジャー!?森林の保護官みたいな?

    A.O.

    ええ、森林をつねに見回って全体を把握しているイメージです。新たな製品をつくったり、新たな製造方法に取り組んだりする際には、私たちが森林ガイドのように案内役を担います。トラブルを未然に防止したり、発生時には初動対応をしたりもします。

  • 産育休の前後で、部署も職種も変化したわけですが、今、仕事に対して前向きでいるようにみえます。はじめからうまくいったのですか?

    A.O.

    いいえ。異動した直後は業務フローを覚える必要もあって、書類の作成が仕事の中心でした。打ち合わせでもうまく発言できなくて、「毎日が単調だなあ。私はこのままマミートラックにはまっていくのだろうか」と悩んでいた時期もあります。

  • マミートラックですか。産・育休からの復帰後、子育てと仕事はなんとか両立できたとしても、補助的な業務しか担当できず、キャリアとの両立は諦めてしまう、という話ですね。最近よく課題に挙がるようになっています。

    A.O.

    私の場合は、そこから年を追うごとに、責任ある仕事を任されるようになりました。自分で試行錯誤しながら取り組めるような、手応えのある仕事ができるようになったんです。
    それには、直属の上司が成長の機会を与えてくれたことが大きかったです。上司は、子育て中の女性社員を受け持つのは初めてでしたが、ムダな残業などを嫌い、“やるべきことをやっていれば、どこにいたっていい”という考えの持ち主。上司の影響で、仕事の優先順位付けを的確に行う、ムリ・ムダ・ムラを探して仕事の見える化やマニュアル化を行うなど、仕事のしかたをつねに工夫するようになりました。

  • 上司に恵まれ、また、それを機会にO.A.さん自身も自らの仕事をアップデートさせたわけですね。

    A.O.

    そうです。もう一つ、農薬をつくる“製剤”というコミュニティにうまくなじめたことも大きな理由ですね。製剤には、私たち事業部のほか、技術開発室、研究所、工場、関連会社など、関わる部署がたくさんあります。初めて一緒に仕事をすることになった人たちに、私が製剤の専門ではなかったことを話すと、「これから勉強すれば大丈夫」「大学で製剤やっていた人の方が珍しいよ」と励ましてくれる人や、部署を超えて専門的な技術を教えてくれる人が多かったんです。また、製造工程ではトラブルがつきものですが、緊急時に協力してうまく対応できると、連帯感が増して結束が強まります。そのような日常のやり取りを通して、異動先で新しい仲間として迎え入れられたと感じることができました。

  • 研究職ではなくなっても、専門分野が変わっても、乗り越えられたのですね。

    A.O.

    実は最初は研究職を離れることに抵抗がありました。有機合成は純粋に科学としても好きでしたし、大学院を通してやっと手に入れた自分のスキルだと思っていたので。「ああ、私は大学院で専攻した分野を生かしたキャリアを描けないワーキングママになっちゃったのかもしれない」と思いました。仕事がうまくいかないときには「やっぱり研究所に残った方が正解だったんじゃないか」とくよくよしていたこともあります。
    でも、仕事を通じて、すべてがムダになるわけではないと気づきました。たとえば、英文レポートを比較的短時間で作れることや、海外・国内問わず技術者とディスカッションできること、ルーティン業務をマニュアル化できることなどは、場所が変わっても活かせる私のスキルだったんです。社内外の多くの人に会う職種になって初めて、私には老若男女問わず仲良くできるという長所がある、と認識することもできました。
    加えて、学生時代から身につけていた勉強方法も活きました。私は学生時代から、スキマ時間を見つけてどこでも勉強する習慣がありました。それは、子育てをしながら新しい部署の仕事を学ぶうえで相性の良い方法になったのです。今では、農薬製剤と、製剤に付随して包装材料や品質管理について学ぶことが楽しいです。分野によっては、おもしろい書籍やWebセミナーがたくさんあるんですよ。

chapter04

『マミーギルト』を乗り越えて、
海外出張へ。

ベルギーにある提携化学メーカーの工場へ出張。
  • 製造Tは国内外の工場への出張が多い部署ですよね。一般的に子育て中に出張するのは難しいと思われ、依頼されないケースもあると聞きますが、AOさんの場合はいかがでしたか?

    A.O.

    異動後しばらくして、上司から、「出張に、よかったら行ってみない?」と打診がありました。正直に言うと、はじめは気が進まなかったです。上司はやみくもに出張を勧めているのではなく、委託先の立ち上げや主要取引先との年次会議といった重要な出張に絞ったうえで打診してくれていました。でも、“幼い子どもを置いていくなんて悪い母親なんじゃないか”という、いわゆるマミーギルトを感じたんです。一方で“断ったら二度と責任ある仕事を任せてもらえなくなるのでは?”という恐怖心がありました。結果として、母に頼ったりベビーシッターを手配したりして、国内工場への日帰りや一泊の出張で経験を積み、海外出張にも行きました。
    後に自分の体験を話す機会でも、“私は罪悪感から脱出していて、出張にも行っていて、仕事も育児も万事うまくいっていました”みたいな体裁の繕い方をしていた気がします。自分自身にそう信じこませたかったのかもしれません。

  • 内心はマミーギルトを感じていたけれど、ムリをしていた、と。

    A.O.

    そのうち、出張に行く程度で私と家族の信頼関係が揺らぐわけじゃない、とわかってきたのです。仕事と同じで、一緒にいる時間の量よりも、質が大切だ、と。いくら私が家に長時間いられたとしても、キャリアについて悩んでいたり、ストレスでカリカリしていたり、疲れてボーッとしていれば、家族も私もお互いに辛いだけです。大事なのは、子どもにとって良い親として接する時間を、できるだけ長く確保すること。その方が、子どもに伝わるものがあると私は思います。

  • マミーギルトに陥りそうなピンチを、観点を変え、気持ちを切り替えることで、乗り越えてきたのですね。

    A.O.

    仕事を任される範囲が広くなるにつれて、より良い仕事をするために現場を知りたいと思い、そのために出張がある、と思うようになりました。取引先が私のことを、上司のメッセンジャーではなく担当者として認識していって、信頼関係が構築できたのも嬉しかったです。
    今では、子どもも成長し、ベビーシッターなしでも出張できるようになりました。トラブルの時、“よし現地視察に行こう!”とすぐ動けるようになったのは、気持ちの面でも家族体制の面でも、私の中の進歩だと思います。

chapter02

今は、自分にいろいろな
可能性を感じられる。

  • 私も過去に参加させていただきましたが、A.O.さんは、ワークライフインテグレーション、女性活躍といったテーマに対して、いくつか自主的な取り組みをされていますね。

    A.O.

    かれこれ6年強、続けています。始まりは育休中に体験談を書いたことでした。次に、これから保育園探しをする社員のためにと「保活アンケート」を行いました。保育園問題が社会的に改善してきてからは、「産育休復職コンシェルジュ」「産育休復職ナビ資料の作成」といった取り組みを行いました。社内勉強会で体験談の講演をしたこともあります。ほかにも、「介護アンケート」「本社ママさん会」なども行っています。

  • そうした取り組みには、使命感のようなものがあったのでしょうか?

    A.O.

    使命感というよりも、もっと身近な危機感というか……。何人かの先輩や同僚が、結婚、出産、育児という過程で退職していったんです。子育ての相談をしていた先輩が辞めてしまったときなどは、本当に寂しかったです。もちろん、それぞれ退職の理由は少しずつ違うでしょうから、私が何か活動しようと、会社がいくら制度を整えようと、やはり辞めてしまったのかもしれません。でも防げた退職があったかもしれない。そして、今日もきっと、どこかで誰かが悩んでいる。だったら、今やらなきゃ、と思うんです。自らの経験や思いを発信し始めると、みんなの声が集まってきて、自然と次の活動につながっていきました。いずれの活動もご賛同いただいた方々と行いました。

  • 身近な人への思いがモチベーションになっているのですね。

    A.O.

    はい。もう一つ、“先輩たちからバトンを渡された”という気持ちもあります。産休前に、ずっと上の世代の女性社員の書いた、会社に育休という制度ができた頃の体験記を発掘したんです。現在、私たちが育休を普通に使えるようになったのは、そうした人たちが苦労して道を切り開いたからだと知りました。何かを変えようとした人が会社にいて頑張っていたんだ、と。また、農業化学品事業部に異動してから、日産化学で初めてマネージャーになった女性と業務で関わったことも刺激になりました。私も、次の世代に何かを残せたらいいなと思っています。

  • A.O.さんは、ワークライフインテグレーションに関する会社の課題について、どのような考えを持っていますか?

    A.O.

    仕事と子育ての両立支援では、徐々に子育て社員仲間が増えて、在宅勤務も利用できて、子育てがしやすくなっていますが、まだ部署や上司によって差がある状況だと感じます。個人の力やリソースに頼っている部分が大きく、会社全体のしくみが不足しているのです。歯を食いしばって頑張る忍耐力や、実家の惜しみないサポートによって、子育てを乗り切る状況が、まだ見受けられるように思います。それだけでは、“私にはムリだ”と感じてやる気を失う人や、虚勢を張って苦しみ続ける人が出てしまうと思うんです。望まないマミートラックやマミーギルトに陥る人を減らしたい。次のステップへのカギは、“マネージャー”だと思います。

  • マネージャー、つまり上司が、個人のキャリアを会社の中だけで考えるのではなく、部下のキャリアや価値観を尊重して応援できるかどうかが問われている、ということですね?

    A.O.

    ええ、もっと“イクボス”が増えてほしい。女性社員の採用数の増加や、配属先の多様化に、イクボスの輪が広がるスピードが間に合っていないように感じます。会社全体で“イクボス”を増やす仕組みを整える必要があると思います。それは、きっと女性活躍だけではなく、多様性のある組織への基礎工事になるはず。もっと先に進めるから、早くみんなで一緒に行こうよって思います。

  • そうですね。日産化学では昨年、ダイバーシティ方針を発表し、あらゆる多様性を受け入れる風土を大切にしていくと宣言しましたが、女性活躍はその第一歩だと考えています。出産・子育てをする女性社員の中には、キャリアアップしたい社員もいれば、キャリアをスローダウンさせたい社員もいるはず。そうした一人一人が自分らしいキャリアを描ける会社でありたいですよね。日産化学は、「くるみん(*)」を取得していますが、決して、くるみんに認定されたからOK ”ではなくて、もっとよい環境をつくっていく必要があると感じています。

    * くるみん:厚生労働省が「子育てをサポートする働きやすい企業」として認定する「次世代認定マーク(通称:くるみん)」

    日産化学の[ダイバーシティの推進]については、こちら。(コーポレートサイトへ移動します)

  • 最後にA.O.さんの今後のキャリアプランを教えてください。

    A.O.

    まずは現部署で昇格して、製造拠点の将来計画策定にも深く関わっていきたいと思います。
    その後は、1つのキャリアプランに固執していません。以前は、“目の前の山を登っていくぞ”みたいな定番のキャリアアップしか発想できなかったのですが、異動をきっかけに、キャリアを考える幅が広がり、自分にいろいろな可能性を感じられるようになりました。エキスパートとして一つのことを極めるのが向いているかもしれないし、部門のマネージャーとして広く会社に影響を与えていく立場にも興味があります。

  • “自分にいろいろな可能性を感じられる”って、楽しみな状態ですね。

    A.O.

    ええ。いずれにせよ、みんながやりがいをもって働けて、ライフイベントにおいても多様な選択ができる環境をつくりたいです。そして、私と似た考えの人との輪が広がって、自分たちの子どもが大人になったときに、1つでも多くの不条理をなくせるといいな、と。私の今の取り組みも、そんなキャリアを自由に描ける世の中につながっているのかもしれないと思います。