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Never-ending Chemistoryはてしない化学の物語をつむごう

日本が明治維新を遂げ、世界の近代国家の仲間入りをしようと息せき切って走っていた1887(明治20)年、日本初の化学肥料製造会社が生まれました。きっかけは、後に世界的化学者となる高峰譲吉が、留学先のイギリスで化学肥料を知って感銘を受け、帰国後、日本でも化学肥料の企業化が必要だと渋沢栄一に進言したこと。日本資本主義の父といわれた渋沢栄一は「農業の盛衰は国家の盛衰に関わる。国家のために実に有益な事業である」と賛同、益田孝(三井物産初代社長)らとともに発起人となり、日産化学の前身となる会社を設立したのです。

その設立趣意書には「倶(とも)に世の鴻益(こうえき)を図らんとす」、すなわち、世の多くの人たちに広く利益をもたらしたいという想いが書かれています。国や人々の将来を考えたリーダーたちが力を合わせることで、日本初の化学肥料が生まれ、日本の農業は大きく発展したのです。

NC_渋沢高峰写真
創業者 渋沢栄一(左)と高峰譲吉(右)。
1917(大正6)年、渡米していた高峰が一時帰国した際の招待会にて。その年は、ちょうど創立30周年でした。

それから130年以上。明治・大正・昭和・平成の時代をくぐり抜ける中で、日産化学は業容を拡げ、さまざまな化学製品を生み出し、社名も変えてきました。しかし、変わらなかったことがあります。常に社会の進歩のために新しい技術や事業を生み出そうとしてきた、その姿勢です。

今も日産化学は、ぶれることなく新しい価値を創造し続けています。その視線は世界に向けられ、挑戦の場は世界に拡がっています。そこには、社員一人ひとりが自律し、自律した個人が協働して価値を生み出すという社風が、脈々と流れ続けています。社会的課題の解決に貢献し、人と環境にやさしい未来を創るために、私たちは化学の物語をつむいでいきます。

私たちの想いを込めた、このサイトを、ぜひご覧ください。このサイトが、みなさんと私たちとの、よき出会いへの第一歩となることを願ってやみません。

日産化学株式会社 人事部

アメリカ・ワシントンの桜と、日産化学

アメリカ・ワシントンの桜と、日産化学

高峰譲吉博士は、日産化学の前身である化学肥料製造会社の設立に関わった後、渡米。消化酵素「タカジアスターゼ」を発見し、ホルモン「アドレナリン」の抽出にも成功、世界の医学・薬学の発展に大きく貢献しました。

高峰博士は、日米親善、民間外交にも力を注ぎ、ワシントンのポトマック川とニューヨークのハドソン川の畔では、約100年前に高峰博士らの尽力で日本から贈られた桜が、今も毎年、美しい花を咲かせます。化学を進歩させることで世界の役に立とうとした、その想いは、今に続いています。